最近読んだ本(なぜヒトは学ぶのか)
こんにちは、おかかです。
今日はスケートの筋肉痛が残っているのでカフェでゆっくり読書!
今回はこれです
なんで勉強しないといけないの?って子供の時は誰もが思ったことあるんじゃないでしょうか。私もそうです。
技術系の会社員として仕事をしていると、学校で学んだ数学や科学の素地が無いととても仕事ができないと感じるので、学校の勉強って大事だよなーと実感ができるのですが…。
と言ってもこれは理系科目と国語、英語に限ったことで、家庭科とか美術が役に立ったかと言われると微妙な話ですねw
あ、あと社会系の科目ですかね。こっちは政治や社会のことを考える上で最低限の知識が得られるので、社会で生きる上では必須かなと思うので、まぁ。
…などと書いていてつくづく、私は教育というものを、「学校で自分のために学ぶ机上の知識を得ること」と考えているなぁと思うわけです。
自分の中で新鮮に感じたのは、まず教育、学ぶことを生物学的に定義してるところ。そこで、自分の普段考えてる教育というものが、めちゃくちゃ狭いってことに気付かされます。
また、生物として変えようが無い遺伝をどう捉えるか、も考えさせられる内容でした。
教育の定義とか、考えたことなかったわ。
カロとハウザーの教育の定義によると、
①他者の学習のために、わざわざその行動をやること。
チンパンジーは自分のために木の実を割り続けることはするし、子供がそれを見ようとまとわりつくのは許すけど、子供が木の実を割るのが上手くなるように、積極的に手本を見せるわけじゃ無いってこと。こういう行動は教育の定義から外れるってことね。
②教える側にとっては、直接の利益が無いこと
時間取るってコストだもんね。
③学習が本当に成り立っていること。
教えられた側が何かしら教えてもらったことをもとに行動を修正したらOK。
この定義面白いよね。虐待とかで、教育のためにとか躾のために、とか言うのよくあるけど、教育する側とされる側が内面で何を思っていても関係無いってところがね。
この教育を、人間は積極的にやるわけじゃん。
コストもかかるのに。じゃなんでこんなことやるの?って思うんだけど、もうこれは本能に近いことなんだなぁ...、というのが理解できました。
赤ちゃんとかの例が紹介されてるんですが、それを見ると、ホントに誰に習うわけでもなく、自然と他者から学習し、自分が学習した内容を他者に示すのがヒトって種なんだなってわかりますw
人間の種としての生存戦略が、お互いに教え合って、学習しあって、生き残る可能性の高い手段を身につけていくってことなんだろうな。
この生物学的な教育の本能が文化に拡張されて、学校制度、つまり制度としての教育が出来ていったんだな。
いやー面白い。常々言ってるんですがやっぱり人間もナマモノですね!
ここで生物学的な観点、行動遺伝学では、
先生の教え方や本人の中で変えられる要因の違いの影響はわずか20%で、遺伝の影響は50%、残り30%は家庭環境の違いってことが明らかになってるわけですよ。
この数字の算出の仕方が妥当かどうかは、正直わかりませんw一応算出の方法にも言及されてますが私には妥当性までは判断できないです。
ただ実感として遺伝の影響が大きいのみんな感じるところかなと。
これ、現代人には残酷に聞こえると思うんですよ。私もちょっと辛くなりましたし。
なんでそう感じるのかなって考えたんですが
根底にあるのが、能力の高さで人間の価値が決まるっていう価値観なのかな、と。
どんな能力の人間でも、平等に尊重してもらえる社会なら、自分じゃないものに背伸びしてならなくても良いわけで
そうじゃないから、努力しても到達できない領域に行きたがるのかなって。
人間は遺伝的に平等だから、努力と環境で学力は伸ばせる!成績が悪いのは努力が足りないだけ!みたいな科学的でない態度は、教育界隈には溢れかえってますけどね。。
ナチスに対する反動ってのもあるんだろうなー。
行動遺伝学の明らかにした事実を真正面から受け止めることは、とりもなおさず、遺伝という自然の生み出した多様性が、人間が作り出した価値観や社会制度によって、格差や差別につながるようであってはならないという発想に繋がっていく、その結果、真の意味での「人間はいかなる遺伝的差異があろうと平等でなければならない」という価値観を支えるものになると私は考えています。
ここ!同意しかないです。これってつまりは人権思想なんだと思うんですよ。私はこれが人権の本質だと思ってますね。